■はじめに
小泉純一郎内閣は第二次世界大戦後の日本の内閣としては、佐藤栄作内閣(7年8ヶ月)、吉田茂内閣(7年2ヶ月)に次ぐ第三位の長期政権(5年5ヶ月)となった。
小泉内閣は、内に郵政民営化・道路公団の民営化に象徴される小さな政府・規制緩和、外政では自衛隊を使用したイラク復興に象徴される国際貢献の普通の国路線を推進した、として後世の政治史に描かれるであろう。
政府与党は、平成18年1月に召集された通常国会で、小さな政府論の小泉政治を後継の総理総裁に歩ませるたがをはめた「行政改革推進法案」(内閣提出)などは成立させたが、教育基本法改正案、防衛庁の省昇格関連法案(内閣提出)や憲法改正の手続きを定める国民投票法案(議員提出)等の重要法案は成立させられなかった。
ところで、昭和31年の経済白書は「もはや『戦後』ではない。異なった事態に直面しようとしている」と言った。経済面の戦後は半世紀前に終わったが、この国の形という意味ではまだ、「戦後」は続いている。
平成の信長といわれる小泉首相の下で、「政・官・業」持ちつ持たれつの「鉄の三角形」はかなり壊せたが、連合国による占領下に制定された憲法の改正は実現できなかったのである。改憲の手続きを定める国民投票法案さえ成立させられなかったのである。我が国に主権がなかった占領下に作られたこの国の形という鋳型は全く壊せなかったのである。国産の憲法制定でこの国の形を正すのは新内閣の歴史的使命と言えよう。
■占領下議会の制約
連合国軍占領下の議会は帝国議会、新憲法下の国会を問わず大きな制約を受けていた。日本政府は敗戦直後の20年9月20日に、緊急勅令第542号として「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件」を制定した。
この緊急勅令は、連合国最高司令官(マッカーサー元帥)の要求を実施するために必要な場合は、必ずしも法律によらず命令によって所要な定めを為し、かつ3年以下の懲役、禁固または5000円以下の罰金などの罰則を設けることができるという広範な委任立法であった。
また、連合国最高司令官総司令部は、議会の立法手続きそれ自体についても、第89回帝国議会(20年11月27日召集、20年12月18日閉会)に先立つ20年10月22日に「議会の立法手続き等の報告に関する覚書」を発した。政府と議会は、この覚書に従って法律案の内容・議事過程・公布の三段階に分けて、総司令部に報告を行った。総司令部の了解なくしては、法律案を提案することもできなかった。
さらに、総司令部は、12月12日付の覚書で補正を含む一切の予算編成は、その修正または改訂を含み、議会への提出に先立って総司令部の事前の審査を受けるよう指令してきた。
総司令部の民政局で日本国憲法の起草に携わったことのあるH・E・ワイルズは「マッカーサーの配下によって承認されない限り、いかなる法案といえども成立するチャンスは絶対になかった」と証言している。
それでは、総司令部が指示した法案が、議会で否決されたり、審議未了の場合はどうだったのか。
「所期の目的は、内閣にポツダム政令と呼ばれる特別命令を出すことを要求することによって達成された。それは法律と同様な効力を持っていた。…………この方法は議会を無視したものであり、その理由にもとずいて議会が唯一絶対の立法機関であるという憲法の明文を信じる日本人から猛烈に反対された。けれども、こういった抜け路をくぐるやり方は、肝心なのは民主的な結果を得るかどうかであり、議会がそのような結果を作り得ないとすれば、緊急手段を取るのもまた止むを得ないという理由で弁護された」(H・E・ワイルズ著・『東京旋風』)。
■食料品配給公団法等
総司令部は成立を意図している法案の場合は、食糧援助を武器に議会に圧力を加え、参議院本会議の時計を止めたことさえもあった。泣く子と総司令部には勝てないのである。
第1回国会の最終日である22年12月9日の夕刻近くになって、総司令部民政局のウィリアムズ国会課長が参議院に来て、「ただいま、衆議院で審議中の食料品配給公団法、飼料配給公団法、油糧配給公団法、食糧管理法の一部を改正する法律案の4案は、占領軍司令部としてきわめて深い関心を寄せている」「現在日本の食糧事情の窮乏を救うため、占領軍は大量の食料を放出しているが、この法案が今国会で通過しないようなときは、この食料救援にも影響がありうる」とどすをきかせた。食糧援助を絡ませたこのウィリアムズの言葉は効き目がある。というのは、ヤミ買出しをしなかった東京地裁の判事が、22年10月11日には、栄養失調で亡くなっているような食糧事情であったからだ。
結局、衆議院本会議は午後11時56分に4法案を全部議決して参議院に送付してきた。
参院本会議は、参議院農林委員会の楠見委員長が壇上で、四法案を委員会が可決した旨の委員長報告後、4法案を一括採決した。参議院会議録第66号では、「午後11時57分散会」とあるが、本会議終了の本当の時刻は午後12時3分過ぎだった。
当時、参議院事務次長であった近藤英明は「時計を遅らせてきわどい議事をやっている間中、2階の占領軍傍聴席にウィリアムズ国会課長とその秘書のミス・ローブがずっと着席して議場を見守っていたことは、深夜空腹を抱えて議事をやっていた我々には、強い印象として残っている」(近藤著・『国会のゆくえ』)という。総司令部の威力をまざまざと見せつけた場面であった。
やはり、「占領管理は、政府ばかりか、議会もがんじがらめにしたのである」(岸本紘一著・『国会議事堂は何を見たか』)というのが真相だったといえよう。
■パペット内閣
昭和22年に発足した社会党、民主党、国民協同党による保革連立政権の片山哲内閣、23年にその保革連立政権を引き継いだ芦田均内閣は総司令部の民政局の受けが良かった。その芦田でも日記の中で、片山内閣の外相時代のことを以下のように述べている。
(1)「組閣以来の印象はPuppet Govermentの色彩は濃くなり、社会党の閣僚は挙げてyes-manである。
(2) 現在の如く行政、司法、立法の一々に干渉されるのでは誰が政府に立っても一定のレールの上を走る丈での芸でしかない。政治家は占領軍に駆使されているのである。従って純野党などというものは存在の余地がない。議会は毎日国会遊戯を行っているのである。
(3)幣原、吉田両氏は既に利用価値がないとして捨てられた。然し自分もやがて同じ運命を辿るに違いない」(昭和22年10月10日)。
占領下の内閣、議会は総司令部のパペット、操り人形だと嘆いているのである。
占領下では、国会は国権の最高機関でもなく、国の唯一の立法機関でもなかった。厳しい言論統制で、言論の自由もなかった。その時代に占領軍によって強要された憲法がまだ生き延びている。敗戦日本が主権を回復して54年経っても、小学生時代に押し付けられた米国製の制服を着ているのである。「日本の常識は世界の非常識」である。新内閣の課題は国産の憲法を制定し、この国の形を正すことである。