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「ノーベル賞作家」という虚構  −大江健三郎への再批判−
                                                  2008.10.18   
評論家 渡辺 望氏

<略歴>
昭和47年高崎市に生まれる。
最終学歴は早稲田大学大学院法学研究科修了(法学修士)。
ご感想やご批判はこちらへ n_watanabe_bc660_japan@yahoo.co.jp 

 大江健三郎という作家には「ノーベル賞作家」という肩書きがついてまわっている。おそらく彼の死に至るまでそれは続くであろう。大江を批判する人間も崇拝する人間も、「ノーベル賞作家・大江健三郎」と何のためらいもなくその肩書きを受け入れているようにみえる。しかし私は彼の名前の前に「ノーベル賞作家」と付け加えることはあえてしないようにしている。その肩書きにそのものに対して、さまざまな大江への疑問を感じるからである。

 実によく知られたことであるが、大江はノーベル文学賞を受賞したのち、自分は「戦後民主主義者」あるいは「民主主義者」である、という理由によって、文化勲章の受章は辞退した。大江以外の著名な戦後作家で他に、公的な文化賞を辞退した人物にたとえば、「戦友に申し訳ない」という理由で、芸術院会員になることを辞退した大岡昇平がいた。大江にしてみれば、大岡は志を同じくする人物であると考えているのであろう。しかし大岡は、昭和天皇が病に倒れたとき、その病状について、いろいろ心配や心痛を感じている、とも言っている。

 私は大岡の芸術院会員辞退について、必ずしも共感を覚えない。しかし「戦友に申し訳ない」という大岡の言葉の「戦友」に、戦争を様々に現実的に経験した大岡の「卒直さ」というものを感じることはできる。大岡は国家に翻弄された戦友の心を思いやってはいるが、決して自分勝手にそれを解釈利用しているわけではない。

 大岡の『俘虜記』に「戦友」という章があり、「・・・戦場から我々には何も残らなかったが、俘虜生活からは確かに残ったものがある。そのものは時々私に囁く。『お前は今でも俘虜ではないのか』と。・・・」という言葉でその章はしめくくられているが、大岡の辞退は、この言葉によくあらわれているように、「耳を澄ます」という誠実な行為をどこかに感じさせるのである。彼は「物書きだったら、公の栄誉なんか嬉しそうにもらうなよ。おまえさんはたまたま生き残ったんだからさ」という亡き戦友の声をどこかに聞いた。単にそれだけだ、と大岡は言おうとしたのではないか、と私は思う。大岡は、その亡き友の声に耳を澄まし、昭和天皇の病状を心配するということもしたのである。「俺達が恨みがましく思っているのは決して天皇に対してじゃない、戦争なんてそんな単純なものじゃない、もっと別のものに対して個々別々に、自分たちは恨みがましく思っているんだ」というふうに。

 「耳を澄ます」というと、何を観念的なことを、と言われるかもしれないが、戦争体験に意味的に関連して現実的な態度をとるときに、何よりもあるべきは「耳を澄ます」という行為に他ならない。「耳を澄ます」という実感がない戦争に関しての思想の語り手の発言は、左右問わずすべて「贋物」である。

 もちろん、若い頃からの無頼仲間だった小林秀雄や河上徹太郎が老年になるにつれて、文化勲章や芸術院会員を受け入れていくことに対しての、大岡の皮肉の意味を推測することもできる。しかしこの「皮肉」もまた、文人の仲間うちでわかりあえる人間的な何かであって、決してイデオロギー的なものではない。いずれにしても大岡昇平の辞退の理由はどこか人間的な匂いが感じられて、それほどの違和感を私は覚えない。それは大岡の作品の大体に対してもそうである。「イデオロギー」より「こころ」が優先する人物の匂い、とでも言うべきであろう。

 しかし、大江の文化勲章辞退は、大岡の芸術院会員辞退の卒直さや人間臭さとまったく異なっている。ノーベル文学賞と文化勲章に価値的な区別をつける大江の意識には、少しも「こころ」の匂いが登場しない。「耳を澄ます」という行為も、人間的な「皮肉」も、大江を巡る一連のノーベル文学賞・文化勲章を巡るエピソードにまったく無縁なことなのだ。大江の文化勲章辞退の理由を裏返せば、ノーベル文学賞は、「戦後民主主義」「民主主義」にふさわしい賞である、ということ、日本の皇室から勲章をもらうことは、日本の皇室が有している反「戦後民主主義」的性格、反「民主主義」的性格からして、自分にふさわしくない、ということになる。しかし大江が言う「戦後民主主義」も「民主主義」も、大岡の「戦友」の確かさに露ほども及ばない。耳を澄まそうにも、それが単なる記号であって、少しも「人間」でも「こころ」でもないのである。
 
 そしてそもそも私の考えでは、ノーベル文学賞はその実体を追えば追うほど、文化勲章に遥かに増して、「戦後民主主義」「民主主義」にふさわしくない賞なのである。大江は、そのノーベル文学賞を、狡猾な戦略で、自分及び自分の政治的方向性の友軍と化す作為をついに完成させ、「ノーベル賞作家・大江健三郎」という終身的肩書きを手に入れた。「ノーベル賞作家・大江健三郎」のさまざまな醜態を前にして、ノーベル文学賞というものがいったい何であるか、ということを私達日本人は考察し認識することが求められるのだ、と言ってもいいであろう。いずれにしても、このノーベル文学賞を巡る大江の周囲に、もう一つの大江への根底的な批判が成立するということを考えなければならないのである。

 まず以下の大江の文章を引いてみよう。これはノーベル文学賞を受賞する2年前の大江が、スウェーデンを訪れたときにおこなった講演の記録である。 

  しかもそれは実体としてなにかをあたえられたというよりも、遠方にある実体に向けて、いつも心がそそら
 れている生き方が、自分の習慣になったということでした。あこがれという詩的な言葉におきかえてしまえ
 ば、美しく単純化されそうですが、それに加えて、暗く恐ろしいものですらもある巨大な力が、北欧から私を
 吸引しているようで、それゆえにこそ、なかなか実際に北欧へ旅をする気持ちになれなかったのです。
  しかし「あこがれ」プラスαは強く奥深くあり、それにつき動かされるようにして、スウェーデンボルグの神秘
 思想からベルイマンの映像まで、私は北欧からの呼び声にいつも面と向かってきました。さら にその心の
 うちの動きを、北欧の音楽がもっとも端的に把握しなおさせてくれたとも感じています。

                                          
                                                     『北欧で日本文化を語る』
                  

 この講演での大江の言葉から、第一印象として気味悪いほどのスウェーデン、北欧への「おべっか」を感じるのは私だけではないだろう。他のものも含めて大江のスウェーデンについての論考には、異常な犯罪率や極端な重税、若者の性文化の荒廃など、スウェーデンが抱える現状の問題にはいっさい触れられていない。この一連の大江の北欧の講演や北欧への平凡な賛美のメッセージは、他ならぬノーベル文学賞受賞のための営業活動に他ならないからである。

 私はこうした大江の営業言動から、かつて松岡洋右が日ソ中立条約を結ぶためにスターリンの前で演じた口八丁を連想する。外相としてクレムリンを訪れた松岡はスターリンにむかって様々な「おべっか」を言う。たとえば「日本は元来、きわめて共産主義的民族である。それがアングロサクソンの個人主義・資本主義に毒されたのである」だから、日本とソビエトは根源的に盟友なのだ、松岡はと言うのである。日本国内ではコミュニズム弾圧の嵐が吹き荒れている中、よくこんな「おべっか」を、共産世界最大の独裁者に向けて、恥じらいもなく言えたものだ、と思う。松岡という人間は昭和天皇に見抜かれたように、ほとんど法螺吹き屋である。そして松岡の「おべっか」は、とうとう最後は日ソ中立条約の締結を成就させてしまう。
 
 スターリンの心が動いたのは、言うまでもなく緊迫したヨーロッパ情勢への認識なくして考えられない。しかし松岡の営業行為的な「おべっか」は、そのあまりのすさまじさのゆえ、スターリンの心の表層を刺激して、その認識とうまく融合し、それを動かしたのである。営業が成功するとは、こういうことである。比べて、大江の場合は、このような水準の低い営業をおこなう相手のノーベル文学賞の何を刺激して融合を遂げたのか。それは「ノーベル文学賞」そのものにある、日本と日本文学に対しての、おどろくほど低い関心なのである。

 ところで、日本の近代文学にとってノーベル文学賞は、いかなる意味あいをもっているのであろうか?

 私が大学に入りたての1990年代初頭、文学の話題を語り合う仲間うちで、次の日本人のノーベル文学賞者が誰であるか、その話題が毎日のように語られていた。川端康成以来の日本人のノーベル文学賞受賞が迫っている、という話が広まっていた。圧倒的な第一候補は安部公房であり、その安部の後に、遠藤周作と大江健三郎が続く形で候補であった。その後、安部は1993年に急死し、その翌年、大江がノーベル文学賞を受賞することになる。

 私自身も他の文学愛好者の多分に漏れず、当時、ノーベル文学賞とは文学にとっての絶対的権威であり、川端康成以来の受賞者が我が国に再び現れることが日本文学の地位を高めるとナイーブに信じていた。個人的には大江の文学に共感することは少なかったが、安部と遠藤の作品については高校時代から熱心な読者であった。そのことはおくとしても、日本国民としてというより文学ファンとして、日本人に文学の絶対権威であるノーベル文学賞が授与されるのではとドキドキした気持ちで発表を待ったものである。だが、その私のノーベル文学賞崇拝を以後ばったりと止める一冊の本があらわれる。古本屋で手に入れた、ドナルド・キーンと徳岡孝夫による三島由紀夫についての追悼の本『悼友紀行』である。
 
 1960年代後半、川端康成と三島由紀夫の二人がノーベル文学賞の受賞を最後まで争い、結局、川端に決するその裏の具体的事情について明かす『悼友紀行』の徳岡の次のような文章を読んで、私はノーベル文学賞への崇拝的な感情がいっぺんに消し飛んだのをよくおぼえている。

  ノーベル文学賞の順番が日本にまわってきたとき、川端康成と三島由紀夫の名前が出た。どちらに与え
 ても不都合はない、という判断だった。ところが、最終的な決定を下すスウェーデンに、日本文学の専門家
 がいない。いきおい、英訳、独訳から推測するほかない。さいわい、あるいは不幸にも、1957年のペンク
 ラブ大会で日本に来て2週間ほど滞在したスウェーデンの文学者がいた。ほかにエキスパートがいないも
 のだから、彼はノーベル賞委員会に対して重要な助言をする役目を与えられた。もちろん、2週間の日本
 滞在で、日本の作家の比較や評価ができるはずがなかった。ところが、その人物は、キーンさんが訳した
 『宴のあと』読んでいた。『宴のあと』は都知事選に取材したもので、登場人物は革新党の候補である。そ
 んなところから『宴のあと』は政治小説で、書いたミシマ・ユキオはきっと「左翼」だろうということになった。
 彼の助言をいれて、ノーベル賞はより穏健で日本的な美を書いた作家、川端康成が受賞することになっ
 た。

                      
                                              徳岡孝夫・ドナルドキーン『悼友紀行』 
                                          

 三島由紀夫を「左翼」と誤認したこともさることながら、選考委員会は一人の選考委員が読んだ『宴のあと』の感想でもって三島という文学者への総合的評価をくだす、という信じがたい短絡を平気でおかしていたのである。

 しかもこの日本文学の専門家は、その『宴のあと』の作品内容さえ誤読している。『宴のあと』はどこをどう読んでも政治小説ではない。確かに『宴のあと』は都知事選の革新陣営の候補だった元外相の有田八郎の妻を主人公にして描いているが、この妻を通して、中年女性の生きる姿、そのいろいろな過去を鮮やかに描きつくした現代小説であって、「政治」はあくまで舞台提供されただけ、この小説は政治小説ではまったくないのである。この『宴のあと』を政治小説と勘違いするのは、よほどの翻訳ミスがない限り、粗筋しか読まない人間に限られると言わなければならない。

 三島はこの有田からプライバシー侵害で訴えられ、有名な憲法訴訟に発展している。「革新陣営の候補」すなわち左翼陣営の怒りを買って訴えられているのだから、三島が「左翼」であるという判断はますます成立しないはずである。しかし当時日本の文学世界を大きく揺るがしたこの事件に関して、ノーベル文学賞選考委員会はまったく無知なのである。徳岡が語るこのエピソードの時期、すでに三島の『宴のあと』訴訟は日本国内で、有名な事件になっているにもかかわらず、である。

 こう考えると、川端へのノーベル賞受賞は、ある意味、「誤謬」といってよい判断だったと言わなければならないであろう。のみならず、私は日本文学自体が何か侮辱されたような憤りさえ感じた。要するにノーベル賞選考委員会は日本にも、日本文学にも、ほとんど無知な人間たちによって構成され、そしてさまざまな決定をしているのだ、と考えなければならない。私はそう思って、以後、ノーベル文学賞に対する関心をまったく喪失したのである。

 文学賞というのは、どんな国のどんな文学賞であっても、選考委員会の文学観によって、意外な受賞者や候補者を生む。たとえば純文学に対しての我が国最大の文学賞である芥川賞は、選考委員の作家の文学観の対立が、選考委員会上の激しい議論や選考委員の辞任といったエピソードをさまざまに生んできた。石原慎太郎や田中康夫の受賞をめぐっての選考委員会の荒れぶりは特によく知られている(後者は受賞に至らなかった)。だが、徳岡が伝えるところによるノーベル文学賞委員会の日本文学に対しての状況は、委員どうしの対立を生む以前の状態にあったことを示している。対立もなにも、日本文学への文学観そのものが、選考委員会に存在していないのである。

 このエピソードはノーベル文学賞受賞に近づくために、まず、翻訳された小説が委員たちの身近になければならない、という条件が存在している、ということを意味している。しかしこのことは、日本文学が国際的・普遍的に読まれているのか、ということとはまったく無縁である。アメリカや中国、アフリカで大ベストセラーになっても、スウェーデンあるいは北欧という限られた地域で翻訳されていなければノーベル文学賞としては話にならないからである。

 受賞候補になった後の大江が急にいたるところの国内・海外講演会で、スウェーデンの文化・文学を褒め称える「おべっか」をつかったということは、大江がこのノーベル文学賞というものが、日本の世評に反して、おそるべきダークゾーンを抱えていることに大江が気づき、彼の戦略を実行に移した、ということに他ならない。そして大江は、川端や三島や安部がおこなわなかったような範囲の行為に及ぶ。単にスウェーデンの書店に並ぶだけでなく、スウェーデン人の日本人への無知を逆手にとって、「自分は日本において数少ない、これほどスウェーデン文化の精通者であるのですよ」という巧みな営業行為をおこなう。

 しかもこのノーベル文学賞選考委員会の日本への無知は、21世紀になった現在もまったく変わっていないのである。たとえば現在、日本人作家で毎年のようにノーベル文学賞候補になり、受賞にもっとも近いポジションにいるのは村上春樹である。作品内容的に、村上春樹とノーベル賞の結びつきを意外に思う日本人も多いだろうが、しかし、海外翻訳ということからすれば、村上の小説は日本人作家でもっとも外国語に訳されている小説家なのである。村上自身も外国語で執筆したり翻訳する能力を兼ね備えている作家である。当然、村上の小説はスウェーデン語でも多く読まれている。すなわち、ノーベル文学賞受賞のための重要な第一段階を楽々クリアしているのだ。「翻訳が多い」ということがただちにその作品がインターナショナルであることを意味 するわけではもちろんないはずである。しかし、こんなことだけが、候補作になる重要な理由の一つである。もちろん村上は大江のように営業をしているわけではないのであるが。
 
 それではこの問題多きノーベル文学賞の選考委員会とは、いったいどのような背景をもつ組織なのであろうか?

 漫画や演劇を通じてよく知られている『ベルサイユのばら』の物語の中で、マリー・アントワネットと、ヴェルサイユ宮に出入りするスウェーデンの貴族フェルセン(フェルゼン)との間の不倫のロマンスに胸をときめかした日本人は少なくないであろう。フェルセンは実在の人物で、マリー・アントワネットとの情事も歴史上の実話である。彼はスウェーデン国王グスタフ3世の命令を受けて、フランス革命の妨害工作を託された政治的スパイであり、アントワネットとの情事も、グスタフ3世の意図命令によるものだった。
 
 このグスタフ3世という人物は、このフェルセンの派遣にみられるように、当時、ヨーロッパに高まりつつあった民衆革命の風潮に対して激しく反発し、その殲滅をはかった絶対専制君主の一人である。対外的にも、フランス、オーストリア、ロシアと肩を並べるスウェーデンの強国化を目指し、ロシア・エカチェリーナ2世と、フィンランドその他の領有を巡り、激しい戦争を繰り返した。グスタフ3世はデンマークにも触手を伸ばし領有化を目論んでいる。フランス革命潰しの政治的謀略といい、大国化への志向といい、グスタフ3世という国王は現在のスウェーデンのイメージと異なる方向性を導こうとした人物であったと言えよう。彼はその強引な絶対君主主義・大国化路線に反発する政治勢力の策謀により、46歳で暗殺の憂き目に遭うが、彼こそ、ノーベル文学賞にたいへんゆかりのある人物なのである。

 ノーベル賞という賞はそもそも、スウェーデンの公的機関が複雑に絡み合いながら存在する、スウェーデンという国の対外的な文化勲章という性格を有する賞である。受賞賞金をはじめとする資金面を提供するのは周知のように基本的にノーベル財団であるが(経済学賞だけ別)選考その他、受賞の実権を握っているのは主にスウェーデンの公的機関の幾つかである。ただし、平和賞についての決定権限はスウェーデンの隣国ノルウェー国会が有している。その他の賞については、物理学・化学・経済学賞についてはスウェーデン科学アカデミー、医学・生理学賞についてはカロンリスカ医科大学が決定権限を有している。

 このスウェーデン科学アカデミーとは別個にスウェーデンアカデミーという学士院的機関が存在しているのだが、このスウェーデンアカデミーが文学賞についての全権をもっているのである。スウェーデンアカデミーは18人の終身身分の委員の文化人によって構成されているのであるが、このスウェーデンアカデミーを創設した人物がグスタフ3世である。

 このスウェーデンアカデミーは、グスタフ3世の創設の精神の国語方面からの維持、すなわちスウェーデン語の徹底的な明確化、国民教育化ということをこなすことをそもそもの目的としている。文学についての機関でなく、国語についての機関なのである。スウェーデンアカデミーのこの目的は現代においても継続しており、スウェーデン国内の文学にかかわる出版や宣伝でさえ、スウェーデン語に関係する事業に比べれば二次的な仕事とされている。しかし様々な事情を経由してノーベル賞の設定と同時に、ノーベル文学賞についての権限をあたえられることになった。

 すなわち、スウェーデンアカデミーという組織は、ノーベル文学賞のために設置された組織でもなければ、現実的にノーベル文学賞に携わることを第一義にしている組織でもない。絶対専制君主によって創立された王立組織ということ、スウェーデンの国民国家化をスウェーデンの国語の確立という面から推進維持する組織であるということがその大きな性格なのである。こうしたことを考えれば、スウェーデンアカデミーに、日本文化や日本文学に精通している人間がほとんどいないのは至極当然のことであろう。

 あれほど日本の皇室や日本の対外戦争について喧しい発言を続けてきた大江は、こうしたスウェーデンおよびスウェーデンアカデミーの背景については、批判的発言はただの一言もない。グスタフ3世と昭和天皇を比較して、どちらが「民主主義」的で、どちらが「反民主主義」的かは、誰が考えてもあまりにも明白なことであるというべきであるにもかかわらず、である。

 しかし、そもそも大江という人間はこうした公平な歴史的判断ができる人間ではない。大江の言葉の世界の観念構造は、公平を志向するようにはできていない。私は前回人形町サロンに寄稿した論文で、大江の言葉の世界とは、「選ばれた読者」を絶えず見極め、その「読者」に巧みに媚びることである、と言った。大江にとっては、現実的に存在したグスタフ3世も昭和天皇も二の次の問題なのである。つまり大江は彼にとってはごく自然に、「選ばれた読者」を、スウェーデンアカデミーおよびスウェーデンというものに定め、その「選ばれた読者」との一体化を実践していくという彼の本領を如何なく発揮していくのだ。大江にしてみれば、ノーベル文学賞を巡ってのさまざまな営業は、彼にとって得意中の得意のゲームを演じるといいような認識であったに違いない。

 ここでスウェーデンアカデミーをはじめ、スウェーデンの諸氏にむかっての大江のノーベル賞受賞講演『あいまいな日本の私』の、「戦後民主主義」者としての大江の自覚にあたると思われる箇所を引いてみよう。

1)日本近代の文学において、もっとも自覚的で、かつ誠実だった「戦後文学者」、つまりあの大戦直後の、破
 壊に傷つきつつも、新生への希求を抱いて現れた作家たちの努力は、西欧先進国のみならず、アフリカ、
 ラテン・アメリカとの深い溝を埋め、アジアにおいて日本の軍隊が犯した非人間的な行為を痛苦とともに償
 い、その上での和解を、心貧しくもとめることでした。かれらの記憶されるべき表現の姿勢の最後尾につら
 なることを、私は志願し続けてきたのです。

2)現在、日本という国家が、国連をつうじての軍事的役割で、世界の平和の維持と回復のため積極的でな
 い」という、国際的な批判があります。それはわれわれの耳に、痛みとともに届いています。しかし日本は、
 再出発のための憲法の核心に、不戦の誓いをおく必要があったのです。痛苦とともに、日本人は新生のモ
 ラルの基本として、不戦の原理を選んだのです。それは、良心的徴兵拒否者の寛容において、永い伝統を
 もつ、西欧において、もっともよく理解されうる思想ではないでしょうか?

                                           
                                                       『あいまいな日本の私』


 この『あいまいな日本の私』で大江は、自分の「営業」行為を物の見事に締めくくっている。

 大江は冒頭で、スウェーデンの国民文学作品の一つである『ニルスの不思議な旅』に手ばなしの賞賛をおくったのち、川端康成がかつておこなったノーベル賞受賞講演『美しい日本の私』に触れる。そこで大江は川端の講演内容には曖昧=「vague」さにみちたものだった、と指摘する。

 そう指摘した上で、「vague」では日本の文化や歴史を説明するには足りないもので、「ambiguous」という、両義的という意味での「曖昧」の方が、川端が説明した「日本」ということより、より「日本」を説明しやすいのだ、と大江はいう。そしてこの「両義的」という意味での「曖昧さ」がゆえに、近代の日本は「西欧化」と「アジア侵略」に分裂したのだ、ゆえに日本人は両義的な意味での「曖昧」があると論をすすめ、そののちに、大江は上記の二つの文章を決意表明的に語っているのである。

 この「曖昧」という言葉の引っくりかえしは、この大江の講演録を幾度読んでも文章上の脈絡がまったく認められない。日本人批評として「vague」と「ambiguous」の間にどんな関係があるのかが少しも文章上、説明されないまま、文章(講演)がどんどん進んでいってしまう。そしてそもそも、川端の「美しい日本の私」を読めば、大江が勝手に解釈しているような曖昧さ、「vague」というものはどこにも認められない。

 大江が川端の講演の何処に「vague」を感じたのか明確に記していないため、私達は独力で川端の講演録から大江が「vague」を感じた部分をさがさなければならない。大江の難解極まるこの『あいまいな日本の私』を幾度も精読すると、大江が川端のノーベル賞受賞講演内容で感じた「vague」の部分とは、どうやら次の二つの部分、川端が日本人の「無」を、禅宗的な概念に近いものだと説明するところであることが明らかになる。

a)禅宗に偶像崇拝はありません。禅寺にも仏像はありますけれども、修行の場、座禅して思索する堂には
 仏像、仏画はなく、経 文の備えもなく、瞑目して、長い時間、無言、不動で坐っているのです。そして、無念
 無想の境に入るのです。「我」なくして「無」になるのです。この「無」は西洋風の虚無ではなく、むしろその
 逆で、万有が自在に通う空、無涯無辺、無尽蔵の心の宇宙なのです。禅でも師に指導され、師と問答して
 啓発され、禅の古 典を習学するのは勿論ですが、思索の主はあくまで自己、さとりは自分ひとりの力でひ
 らかねばならないのです。そして、論理よりも直観です。

b)私の作品を虚無と言う評者がありますが、西洋流のニヒリズムという言葉はあてはまりません。心の根本
 がちがうと思っています。道元の四季の歌も『本来ノ面目』と題されておりますが、四季の美を歌いながら、
 実は強く禅に通じたものでしょう。

                                             
                                                          『美しい日本の私』
                                          

 川端が「美しい日本の私」で繰り返して苦心して説明しようとしているのは、日本文化における「無」というのは、ニヒリズムというような消極的概念でなく、ある種の肯定的な概念である、ということである。川端の説明は少しも「vague」なものではない。
 
 しかし言うまでもなく、キリスト教文明的な意味でのニヒリズムという概念に依存する限り、川端のいう「無」の説明は不明確でよくわからない、すなわち曖昧=「vague」としか思えない、と言える。現代の西欧ではよほどラディカルなヨーロッパ中華思想の持ち主でない限り、そんなふうに意地悪に日本文明をとらえる人間はいないはずであるが、大江は自身がそのようなラディカルなヨーロッパ中華思想に依存するという安全策をとる。

 すなわち、大江が川端に感じたという「vague」とは、西欧文明の基準からすれば川端の言っていることは「意味がよくわからない」ということ、西欧文明的な感性にまったく依存しきってみせて、川端の苦心を暗にからかっていることに他ならない。川端の言う「無」は、西欧のニヒリズムからすれば「vague」だ、ということなのである。このような「曖昧」という言葉のほとんど悪意的な操作をまず下地において、大江の「おべっか」が、スウェーデンから、西欧文明全体へと拡大していく。こうして、ノーベル賞を先んじて受賞した川端の言葉さえ巧みに利用し、大江はノーベル賞受賞に関しての営業行為を完成していくのである。

 たとえば1)の文章においてなぜ「西欧先進国・アフリカ・ラテンアメリカとの深い溝」と「アジアにおいて日本の軍隊が犯した非人間的行為」が、一つの文章内で大江は併記したのであろうか?あるいは2)の文章においてなぜ、日本国憲法の平和主義原理が、「それは、良心的徴兵拒否者の寛容において永い伝統をもつ、西欧において、もっともよく理解される思想ではないでしょうか」というふうな文章の付け加えを大江はしたのであろうか?
 
 大江が1)の文章で言っているのは単なる自虐史観ではない。大江の中での対アジアの自虐史観を、ヨーロッパとのかかわりにおいてまで、引き伸ばして自虐的に受け入れよ、と自虐史観よりも徹底的なことを主張しているのである。2)の文章で言っていることは、単なる日本国憲法万歳ではない。日本国憲法の平和主義原理は、アメリカの押し付け以前に、ヨーロッパ人の精神的伝統に由来したものである、日本人はそのことに西欧に感謝しているのである、と言いきっている。これは絶対平和主義よりもさらに徹底された平和主義であるというべきであろう。これらの決意表明を大江は、彼の基準からすれば、明らかに反民主主義的で、侵略主義的の権化のようなグスタフ3世の創設したスウェーデンアカデミーの諸氏にむかって語りかけているのである。
  
 ここに認められるのは、あえて喩えるならスウェーデンさらには西欧への大江自身のまことに身勝手な、「無条件降伏」であると言わなければならない。たとえば、大江はノーベル賞受賞の前年のニューヨークでの大きな講演会で、「三島由紀夫の自殺は、あの自殺のパフォーマンスの主張が、西欧やアメリカに対して閉じられていたことが問題なのです」(『回路を閉じた日本人でなく』)と驚くべき発言をしているが、これは『あいまいな日本の私』の先鞭をつけた言動であると言うべきだろう。つまり彼は川端や三島という先人の作家まで巻き込んで、「無条件降伏」への儀式を盛り上げようとしたのだ。大江のノーベル文学賞受賞、それは大江自身が仕組んだ狡猾きわまる「無条件降伏」行為に他ならないものだったのである。

 大江がここまでして「ノーベル賞作家」という肩書きを欲したのだ。賞を欲する作家としてのエゴイズムやナルシズムそのものを私は否定しようとはもちろん思わない。賞によって自分の作家的地位を高めようとするのは、作家の正しい職業的本能である。しかし、作家は自分を生かすために賞を欲するのであって、賞によって生かされているのではない。大江の内面ではこの図式がまったく逆転している。

 賞に異常に執着し、作家としての本能を顕わにしたという文学史上のエピソードとして、芥川賞を巡る太宰治の有名なエピソードを思い出すことができる。太宰はどうしても芥川賞が欲しかった。そのために選考委員の川端康成に幾度も懇願の手紙を書 いて送る。その手紙は執拗というより惚稽なほどのもので、つい苦笑したくなるほどの喜劇さえ感じられる。「・・・労作生涯いちど報いられてよしと客観数学的なる正確さ一点うたがひ申しませぬ。何卒私に与へてください。一点の駆引ございませぬ。深き敬意と秘めたる血族感とが右の懇願の言葉を右の懇願の言葉を発せしむ様でございます。困難の一年でございました。死なずに生きとほしたことだけでもほめて下さい・・・」 しかしこの執拗さが逆作用し、川端や同じく選考委員の佐藤春夫の反感を買い、太宰は受賞を逃してしまう。太宰がここまで受賞に執着したのは、名家である太宰の実家へのせめてもの示威を彼が欲したのだ、ということが定説になっている。

 しかしこの時期(昭和10年頃)、芥川賞は現在のようなネームバリューをまったくもっていなかったのである。芥川賞が文壇の権威的地位をもつようになったのは、実は昭和30年以降のことで、それまではこの賞を受賞しても、それが文壇人としての勲章になるということはまったくなかった。したがって、太宰が功名心から芥川賞を欲した、というのはおそらくあたっていない。比べて彼が当時、薬物(パピナール)中毒に苦しんでいて、その薬代あるいは中毒症状の治癒のために、芥川賞の賞金を欲していたという解釈はずっと信憑性が高いが、しかしそれでも太宰の足掻きのすべてを説明しつくしてはいないと思う。賞金ということならば、他の賞に足掻いてもいいわけだが、太宰はあくまで芥川賞に執着したのである。
 
 私としては、賞金目当てでという解釈のさらにもう一つの有力な解釈、太宰が芥川龍之介とその作品に心酔していて、それがゆえに芥川賞という名前の賞を欲した、ということを付け加えると、太宰の子供っぽい、しかし人間臭い面が説明しつくせるように思われる。賞を求める作家の気持ちというものは、自分の文学形成にかかわってくれた人間への感謝、しかしその感謝を自分の栄誉と結び付けたいという、一見すると矛盾した人間性の発露にこそある、と私は思う。芥川賞を欲するという太宰の行為は、それが実によくあらわれているように感じられる。

 この太宰のエピソードを踏まえて、もう一度、大江の『あいまいな日本の私』に戻ってみることにしよう。

 大江の論理的詐術と「おべっか」の本領の極みは、実はたいへん分かりにくい形で、この受賞講演の後半部分にあるのである。

 大江はこの講演の後半の部分を、彼の大学時代からの師匠でありフランス文学者の渡辺一夫からの影響とその思想についての解説に割いている。大江は渡辺から、フランスのユマニスムの思想の寛容の精神を継承した、と繰り返し説く。

 大江に果たして、フランス・ユマニスムの思想の寛容が存在するのかどうか自体、大いに疑問である。が、確かに渡辺は大江の大学時代の教え手であり、フランス文学のおもしろさを大江に教えた人物であるのは間違いない。だが大江は、渡辺一夫に加えてもう一人の彼の青春時代の彼の影響元について触れることをここでしていない。

 大江は確かに寛容の精神を渡辺から学んだのかもしれない。しかし、一文学青年であった大江を、60年安保をはじめ様々な「政治の季節」へと誘導する根源となり、大江という文学者の方向性を決定づけたのは社会参加の精神だったはずである。大江という作家を卒直にみれば、寛容の精神より社会参加の精神が遥かに勝っている。

 だいたいこの講演録で大江が退屈に狡猾に繰り返す左翼政治的な言動からして、大江が青年期 に身につけた社会参加の精神に由来するというべきなのである。

 大江文学に多少なりとも通じていれば、社会参加の精神についての精神の在り方を大江に与え、同時に初期の大江の小説の作風についても決定的な影響を与えたのがサルトルであることを知っているはずである。しかし大江はこの講演でサルトルについて触れることをまったく避けている。渡辺を通じて知ったとこの受賞講演でもっともらしくいうラブレーなど、大江に本質的な影響などほとんど与えていない。だいたい大江は渡辺の指導のもと、東京大学でサルトルを専攻したのである。サルトルなしで、大江文学を語ることは不可能であり、それは大江本人が一番よく自覚しているはずである。なぜ大江はサルトルについて語ることを避けたのであろうか?

 理由の推測は簡単である。サルトルは1964年にノーベル文学賞に選出された。が、スウェーデンアカデミーの受賞基準のあまりの不公平さ、政治的性格を厳しく批判して、受賞を辞退したのである。このノーベル賞受賞式で、そのようにノーベル文学賞を軽蔑したサルトルについて触れないという「不誠実」自体が大江の、ノーベル文学賞への「おべっか」なのである。

 この異様なほどに徹底された「おべっか」こそ、大江の作家としての根幹にかかわることだと言わなければならないであろう。太宰があれほどまでに足掻いて芥川賞を求めたことが、心の中の師を自分の功名心の中で求める、というような作家らしい人間味あるエゴイズム、ナルシズムが大江にはまったくみられないのである。

 ここに至れば、大江の文化勲章の辞退ということも、大江にとっては、ノーベル賞受賞という「無条件降伏」という儀礼への一部分を形成したものである、ということが明らかになるであろう。先人の作家も師匠格の作家も、そして文化勲章をはじめとする日本文化も全部巻き込んで、彼は「無条件降伏」というノーベル文学賞の受賞を、ついに完成させた。それがゆえに私は「ノーベル賞作家・大江健三郎」という肩書きは、大いなる虚構としてしか感じられず、それを言葉にすることを自らに禁じているのである。


 
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